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大泉記念病院の歴史


 
大泉記念病院の歴史
 

   大泉記念病院は、平成十七年(2005)9月、宮城県の蔵王町宮から白石市一本松に新築増床移転しました。その歴史は優に130年を超え、長年にわたり僻地医療を担うとともに最新の医療技術と医療機器を取り入れながら、救急医療体制の整備を常に心がけてきました。大泉記念病院の地域に根ざした医療活動は社会的にも広く高い評価を受けております。
 
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   現在の岩手県江刺岩谷堂の医師大泉高春(宗玄)は、岩出山伊達家にお輿入れした岩谷堂伊達家の姫の侍医として、1800年頃、現在の宮城県岩出山町に弟 宗俊とともに移住した。高春の子、大泉高猷(磯志)、高虎(健治)兄弟は医師として家名を継いだが、安政五年(1858)、六年(1859)にあいついで二人とも逝去された。
 
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   高猷の次男 大泉奏(すすむ)は、岩出山町に現存する日本最古の学問所「有備館」に学び、長ずるに邑主御医師 星愿安、玄祐父子に師事して、医学を修得した。西洋医学の流入に伴い明治七年(1874)制定された「医制」、その後の明治九年(1876)に布達された「医術開業試験法」に合格した大泉奏は、たまたま明治九年に起きた岩出山城の大火により烏有に帰した土地を後にし、無医村開拓の意図のもとに現在の宮城県刈田郡蔵王町宮に土地を購入し、後に大泉記念病院の礎となる大泉医院を開業した。時に明治十四年(1881)八月のことである。
 
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   大泉奏の二子は夭逝し、寄せ家督の大泉宗治とつるとの間に生まれた長男であった浩は、医師となり奏の跡を継いだ。所謂、「大先生」である。次男、磯は青森県立病院初代病院長鈴木三伯氏に見込まれ、同家の人となった。磯は、十和田市立病院長を歴任し、昭和二十八年(1953)青森県三沢市で開業した。三男、壮は山形で開業し愛子は佐藤家に嫁いだ。
 
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   浩に子なく、養女の娘婿 高橋孝が、昭和三十七年(1962)三代目を相続し、昭和五十二年(1977)十月には、病床62床の医療法人浄仁会大泉記念病院に改組、初代理事長に大泉浩が就任した。昭和五十五年、高橋孝が理事長兼病院長に就任するとともに80床に増床、さらに平成元年(1989)には110床に増床した。
 
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   平成十三年(2001)、高橋孝は理事長職を大泉家の血を引く鈴木磯の次男、勉に譲り会長に退いた。また、新しい院長には松本純が就任したが、奇しくも松本は岩出山町の出身である。それから4年、現在の白石市に新築増床移転した。平成27年6月、松本純院長が理事長に就任し、現在に至る。
昭和34年頃の大泉医院
2005年9月移転するまでの大泉記念病院
2005年春の叙勲で瑞宝双光章を授与された故高橋孝会長
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